フロム「愛するということ」(The Art of Loving) 人を愛せるかどうかは自分の問題?

bookicon読書
読書

雑誌、ネットニュース、流行りの婚活アプリなどなど、恋とか愛を論じる媒体はたくさんありますが、そのほとんどは「いかにしてお目当の相手を落とすか」「自分を魅力的に見せるか」で、「自分が愛すること」に関してはちょっと放っておかれています。

そんななか、60年以上前に書かれた『愛するということ』(エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳)では、愛とはなんぞやと人間の実存的な側面から問いかけています。資本主義と愛の対立も面白いです。2020年8月に新訳・改装版が出版。
先日本屋に行った際、この真っ白な装丁の本が平積みで光っていて訳も読みやすく購入してしまいました。結果は買って損なしでした。
※どうやって恋の相手を落とすかについてではないのでご注意。

「相手が何々してくれない」、「好きな人ができない」、「誰々が大切にしてくれない」などなどそんな受身な考えが頭にある場合、この本を読むとハッと考えさせられることがあると思います。


愛するということ

↓忘備録です。

・まず愛とは技術であり、知力と努力が必要。「恋に落ちる」という最初の体験は愛していることではない。

・そもそも人間は、孤立への不安からその解消を求めてきた。例えば以下の3つ。

古代は集団の祝祭的融合で一時的一体感を得る。
現代社会では没個性的な型通りの同調をする。(九時五時人間、画一的娯楽など)穏やかで惰性的でゆっくりと精神が死んでいくような協調。
三つ目は創造的活動であり、素材と一体化する。

しかし、どれも実存の問題に対する完全な解決でなく、答えは人間同士の一体化、他者との融合(=愛)にある。

・成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままの結合である。
愛は能動的な活動であり受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく「みずから踏み込む」ものである。

・愛とは与えること。与えることはしばしば何かを諦めたり剥ぎ取られたりと思われがちである。与えるという行為は、自分の生命力の表現であり、他人のなかに何かが生まれ、生まれたものは自分に跳ね返ってくると信じること。

与えるという意味で愛せるか? それはナルシシズムを克服し人格が発達している必要がある。与える以外には、配慮、責任、尊重、知が必要。

幼い子供は愛することができない。大事なのは愛されることでまだ自分からは愛さない。
思春期を過ぎ、自己中心主義を克服してもらうよりも与えることに喜びを見出す。
幼稚な愛は「愛されているから愛する」
成熟した愛は「愛するから愛される」
未成熟な愛は「あなたが必要だから愛する」
成熟した愛は「あなたを愛しているからあなたが必要だ」

他に
・父母の愛の性質の違いとアンバランスになった場合の神経症の特徴について
・フロイト「愛の本質は性である」説への反論。
・人間は標準化され疎外された商品同士となった資本主義下の愛について。現代資本主義を痛烈に批判しています。

最後に、愛とは習練であるとし、規律、集中、忍耐が必要としています。


注:フロムは同性愛に否定的だったようです。神話から両極の性の男女は肉体的・精神的にも統一されようとすると述べ、同性愛は逸脱としています。(今はこのようなことは書けなさそうですね)

しかし結局、自分が上記のような崇高な思いを持っていても、相手が不誠実でまだナルシシズムから抜けられない人格だと愛の成立は難しいです。それはマルクスの引用でさらっと述べています。

この本を読んで、やはり人を愛するには、信念と自信を持ち、自立した人間であること、自分をまず愛することが土台となると感じます。
いまだに「〇〇が何々してくれなかった。好かれていないんだ」「親にあんな風に育てられたからこう育ったんだ。親のせいだ」私はこんな感情に囚われることがたまにあります^^;
自分が愛せないことを周りに責任転嫁してしまっているのです。。おなじ方もいるんじゃないでしょうか。
フロムは、他人について自分が抱くイメージ、ナルシシズムによって事象を客観的に見ることができなくなっているといいます。
ナルシシズムを抜けて客観性と理性を持ち、身内肉親への精神的執着を卒業してから、人を愛することができると。
なんとなく過去に囚われている方も(毒親本やAC本もいいですが)この本を読むと違った視点に気づかされることがあるのではと思います。

最初からこの本の通りには愛せません。むりです。若いときは衝動に動かされて惚れた腫れたでいい。
そうやって自分や相手の未熟さに傷つき、成長して、人を愛することを知れる気がします。
(と四半世紀しか生きていない人は思ったのでした!)

スポンサーリンク
えりをフォローする
ナマケモノのメモ

コメント

タイトルとURLをコピーしました